私たちは『ガラス』を食べている!? 食品や生物の物性の謎に挑む。
食品工学を専門とする川井先生の研究グループでは、食品や食品素材の物性を解明し、それを食品の品質設計に役立てる研究をおこなっている。「物質」の「性質」を解明するのが物性研究であり、食品はその対象の一つに過ぎないが、食品を物質として見たとき、そこには驚くべき展開が待っている。
「例えばガラスと聞くと、皆さんはコップなどを思い浮かべると思います。しかし、ガラスはあらゆる物質が取り得る一つの状態で、実は、食品もガラスになるのです。これまでの研究によって、クッキーなどの乾燥した澱粉系食品の多くはガラス化していることが分かりました」
ガラスを食べる――それは、我々が考える食品のイメージからは程遠いものだ。このことが食品の品質にどうかかわっているのだろうか。
「クッキーのサクサクした食感は、口腔内でガラスが割れる現象と物理的には同じです。皆さんも経験したことがあると思いますが、クッキーは湿気るとグニャっとした食感に変化します。これはクッキーという“親水性のガラス”が水を吸うことで、ラバー状態へと変化するために起こります。冷え固まる前のガラス工芸品が水あめのようになっているのをテレビなどで見たことはないですか? この水あめのような状態がラバー状態です。この現象は『ガラス-ラバー転移』と呼ばれるもので、工業用ガラスや合成高分子分野などでは広く知られています。これをクッキーに適用することで、湿気にくい(高湿度でガラス状態を維持する)クッキーを作ったり、乾いた状態でもグニャっとした(低湿度でラバー状態を維持した)クッキーを作るなど、食感や保存性の定量的な“設計”が可能になることが分かりました」
こうした研究はSDGsに関わる社会問題を解決するための手段にもなると先生は続ける。
「先のクッキーと同じことは、フライ食品の“衣”にも言えます。揚げたての衣は表面がガラス化しており、サクッとしたおいしい食感を呈しますが、時間が経過するとラバー状態になって、ベチャとした食感になります。こうなるとフライ食品は商品価値を失います。フライ食品はコンビニエンスストアなどでも売られていますが、一定時間が過ぎると廃棄されるようです。これは食品が傷んだからではなく、美味しくなくなったからです。衣のサクサク感を長時間維持できれば、フードロスの削減にもつながるでしょう」
「物事には何かしらの接点がある」と先生は言う。現象のメカニズム(接点)を解明することで、同じ接点を持つ別現象が見えてくる。そこに、今までになかった新しい食品の姿があるのかもしれない。
「例えば、食品素材のガラス-ラバー転移を巧みに制御することで、通常は固めることができない食品粉末を、スティック状に成型することができるようになりました。スティック状の食品にチョコレートをディップした商品は昔から売られていて、スティックに果汁を練り込んだ商品もありますが、つなぎとなる小麦粉は欠かせません。ところがこれを、つなぎなしの素材100%で作ることができるのです。余計なものは一切含まれていませんので、素材本来の濃厚な味わいとフレーバーを楽しむことができます。食の可能性を広げる一例といえるでしょう」
物事の接点は無数に存在する。一見すると無関係な二つの現象にも接点はある。これを類推(アナロジー)によって見極めるのだという。さらに、ガラスは乳酸菌とも結びつく。
「微生物も生物なので水がなければ生きていけません。しかし、現実には乾燥しても死なない微生物は多く確認されています。実は、乾燥による微生物の生死にも、ガラス化が深く関わっているようです。我々はいま、微生物によるガラス化機構を解明するための基礎研究に加えて、乾燥耐性の低い乳酸菌を死滅から守るための応用研究を食品企業と共同で進めています。この乳酸菌を生きた状態で摂取することで、ヒトへの更なる健康増進効果が期待されるからです」
食品の新たな可能性を拓く様々な研究は手法や装置までオリジナル。
ガラス化だけではない。先生の研究は実に多彩だ。
「例えば、先のクッキーであれば、焼き方を少し変えるだけで、食後血糖値が上昇しにくいクッキーになることが分かりました。クッキーの主成分は小麦澱粉ですが、澱粉は“結晶”部位を持った高分子材料として捉えられます。この結晶部分は加熱調理過程で融解して“液体”になります。液体は結晶よりも不安定なので、消化酵素が働きやすくなります。これを逆手に取り、融解を回避した焼成(ノンメルティング製法)を行うことで、クッキー中に結晶性澱粉が多く残存した結果、消化耐性が高まって、血糖値が上昇しにくくなるのです。
そのほか、おいしさ(食感)の解析・評価に関する研究にも力を入れています。ヒトは食べたときのおいしさを様々な言葉で表現します。例えばパンであれば“ふっくら”、“もちもち”などと。しかし、数種類のパンがあったとき、どのパンがどのパンの何倍“ふっくら”、“もちもち”するのかを表現することは難しいですね。おいしさを、客観的なパラメーターによって数値化することは、食品の定量的な品質制御・設計には必須です。こうした研究は、食品企業との共同で進めることが多いです」
このように、先生は様々な研究を進めているが、そのための研究手法は必ずしも確立されていないようだ。しかし、研究を進めるうえではそれも重要なことだと先生は言う。
「研究対象となる食品は無数にあります。材料やその組み合わせ、加工方法、食べ方などによって、千差万別です。すべての食品に適用可能な万能装置はありませんので、研究の対象や目的に応じて、実験装置や解析方法を自ら設計するところから検討しなければなりません。しかし、このことが独創的な研究成果を生み出すための原動力にもなるのです」
研究者として大切にしたい3つのこと。ヒトは食品のごとし。
そんな先生が研究に際して心がけていることは「類推」「温故知新」「諸行無常」だという。
「先にもお話しましたように、物事は必ず何かでつながっており、“類推”の中から新しい価値や発見が見出されると考えています。コツは、相手の立場に立って考えることです。パンであれば自分自身がパンになった気持ちで想像してみるということです。
また、先人の知恵や努力を理解することも大切です。食品は、飢えをしのぎ、人生を豊かにするために、人類が長い歴史の中で培ってきた努力の賜物です。それは偶然の代物ではなく、必然的にそうなったようです。その価値を正しく理解した上で、いまの時代に合わせて応用・発展させること(温故知新)が、新しい価値を導くための近道になると考えています。
最後に、これは私が人生観として常に意識することなのですが、「時間」についてです。食品には賞味期限が設定されていますが、ヒトも似たようなものではないでしょうか。しかし、それを儚く虚しいものと捉えるのではなく、食べ物がそうであるように、与えられた時間の中で楽しむことが大切だと思うのです。これまでの研究を通じて、賞味期限は努力すれば延ばせることも分かっています。私はこれからも、同じ志を持つ学生と一緒になって、まだまだ研究を美味しく味わいたいと思っています」
■研究室の最新情報
2021年7月16日掲載